東京メトロ湾岸線

 東京メトロ湾岸線は、品川~大井町間を東京・銀座・お台場を経由して結ぶ東京メトロの路線である。新日暮里駅からは帝北電鉄に、品川駅からは東急大井町線、また大井町線を経由して東急田園都市線にも直通している。路線名はお台場など湾岸地域を通る路線の特色を示したもので、ラインカラーは東京メトロでは珍しい和色である藍色。これは湾岸地域を通る路線であることから海を示す青系の色であると同時に、直通先の帝北電鉄が和色をコーポレートカラーなどに積極的に採用していることを受け、それに合わせる形で路線のつながりを感じさせている。

 路線北端の新日暮里駅は帝北の管理駅、南端の品川駅は東急の管理駅となっている。品川・お台場・新日暮里で双方に折り返せるほか、数寄屋橋でB線(新日暮里方面)方向に,美倉橋でA線(品川方面)方向に折り返せる。また、ゆりかもめの有明テニスの森駅付近に有明車両基地を、帝北線笹久保駅の隣に笹久保車両基地を構えている。

 

 

沿革

 

 この路線のルーツは、1972年の都市交通審議会第15号において現在の副都心線とともに追加された整備路線第14号線である。当初は「鳩ヶ谷から江北、田端、日暮里、下谷、元浅草、東神田、神田を経て東京・銀座方面へ至る路線」として示されている。同時に鳩ヶ谷~日暮里間については帝北電鉄日東本線を複々線化することも示されている。これは当時、帝北線沿線の宅地開発が盛んに行われはじめ、さらには鳩ヶ谷を中心とした巨大規模のニュータウンを造成する計画が動き始めていたことから、帝北線からの通勤客の受け皿としての役割だけでなく、千代田線とともに銀座線や日比谷線のバイパスとしての役割を担って混雑を緩和していくといった意味合いも込められた。

 このまま順調に建設が始まると思われていたが、千代田線の開業により銀座線・日比谷線の混雑がある程度緩和され始めたこと、神田以遠のルートが曖昧であることなどを理由に計画がいったん凍結された。

 しかし1950年代から始まっていった東京への一極集中、人口増加にともなって帝北線の混雑は激化していき、また帝北線だけでない他路線からの通勤客の増加もあって、接続する国鉄(当時)線ならびに営団各線(当時)は再びパンク状態に陥る。この混雑を緩和するために再び14号線の計画が持ち上がった。

 

 

 1985年の運輸政策審議会答申第7号では、第14号線について、臨海副都心地区、八潮を経由し大井町へ至り、東急大井町線と相互直通運転を行うものとして位置づけられた。臨海副都心の開発は「マイタウン計画」として進められており、さらに1985年には「東京テレポート構想」として、21世紀初頭には6万人の居住人口を見込んだ開発計画を東京都が発表しており、14号線はそのアクセス路線としてここで改めて位置づけがされた。混雑が激化する東急田園都市線の抜本的な混雑緩和策としての大井町線強化の一環としての役割も同時に示されている。この段階で湾岸線全線のルートが確定し、第一期線として新日暮里~数寄屋橋間の建設に入っている。

 

 

 1988年には数寄屋橋~大井町間の敷設免許が取得、着工され、1998年の開業を目指すとした。1989年には新しい臨海副都心開発計画である「東京フロンティア構想」が東京都から発表され、それを受け早くも第2期線として数寄屋橋~台場中央(現お台場)が着工、さらに1991年には臨海副都心地区で1996年に世界都市博覧会を開催することが決定し、そのアクセス路線としてりんかい線とともに重大な役割を担う路線として、予定より早い1996年の開業を目指すべく急ピッチで建設が進められた。

 しかし、世界都市博覧会の開催が発表された1991年から1993年にかけ日本の経済状態が悪化、いわゆる「バブル崩壊」が起こり、博覧会どころか臨海副都心の開発自体に暗雲が立ち込めたころ、1995年に就任した青島幸男知事によって世界都市博覧会の開催中止・臨海副都心の開発見直しが宣言される。これを受け、この地区に移転予定だった企業はその多くがキャンセル、お台場は空き地だらけとなり、今後の開発にも不透明さが際立ってきた。1994年には工事を行っていた新日暮里~数寄屋橋間が「湾岸線」として開業し、また帝北日東本線の田端新町~江北間の複々線も開業したものの、日本が全体的に不景気であったことも影響し、第2期線のうち建設の80%が完了していた営団湾岸線は1995年下期に一旦建設停止、事実上の建設凍結となった。

 こうして湾岸線は新日暮里~数寄屋橋間でしばらく営業が続けられることとなり、イマイチ湾岸感のない湾岸線が誕生した。(実際、2002年ごろに路線名称を「八重洲線」や「竹町線」に変更することが検討されている。)この間にも、1997年には帝北線江北~鳩ヶ谷間の、2003年には鳩ヶ谷~武蔵戸塚間の複々線が完成・供与開始しており、湾岸線は日に日に混雑が激化していった。一方のお台場地区も、1997年のフジテレビ本社のお台場移転を皮切りに、お台場海浜公園や東京ジョイポリスなどの娯楽施設が次々と建設、当初の計画どおりとは行かなかったが着実に発展を遂げていった。

 2004年、営団地下鉄が民営化、東京地下鉄へと生まれ変わった。そして、お台場地区の発展を受け、凍結されていた湾岸線第2期区間の建設再開、第3期区間を品川経由に変更、さらに品川〜大井町間を東急による建設・所有とした上で着工することが発表された。この第2期線の工事は、すでにほぼ完了していたこともあって2005年には完了、2006年に数寄屋橋~お台場間が晴れて開業した。計画から19年目にしての開業であった。

 その後2013年には大井町~品川間の大井町線延伸部分と湾岸線全線が開通、同時に帝北と東急を合わせた3社による相互直通運転が蓮田・春日部~長津田間で開始されている。

 


(左)湾岸線内を行く帝北1000系。美倉橋にて

 

 

車両

 

06系

 湾岸線用の車両は1993年の湾岸線部分開業に伴って6両×9編成がはじめに製造された。同時期に千代田線にも輸送力増強用として10両×1編成導入されており、5000系以来、営団で同系列車両が複数路線に導入されることとなった(同一設計で同時期製造の有楽町線用07系とは内装が異なる)。1994年には輸送力増強の目的で新たに中間車が製造、1995年にはダイヤ改正に伴う運用増加で新たに10両編成×3本が製造され、10両×12編成の布陣となった。1996年に予定されていた湾岸線延伸開業の際に再増備される予定であったが、建設凍結に伴い中止、2006年の延伸開業では新形式車両・14000系が増備されることとなった。2013年には運用増加への対応で千代田線で活躍してきた1編成が転属、合計で13編成となった。

 

14000系

 

 

  2006年の湾岸線数寄屋橋~お台場間延伸開業、またそれに伴うダイヤ改正に備え、1次車として10両×5編成が製造された。同時期製造の有楽町線向け10000系と同様、東西線用05系13次車をベースに設計されている。車体はアルミ製で、前面は曲面ガラスをふんだんに使用した丸みのある設計となっている。2008年にはダイヤ改正による運用増加に対応するため、2次車として10両×1編成が新規で製造されている。2009~2011年は増備されなかったが、2012年から2013年にかけて湾岸線お台場~品川間延伸開業ならびに東急線との直通運転開始に伴うダイヤ改正での運用増加への対応で再製造されることとなり、同時期製造の千代田線向け16000系の設計思想を取り入れて全面的な設計変更が行われたうえで10両×6編成が3次車として追加導入された。

ダイヤ

 

 日中は基本的に10両編成による概ね5分間隔での全区間通し運転が行われている。帝北線直通系統は1時間に平日は6本、大井町線直通系統は1時間に4本と、直通運転も充実している。

 帝北線直通と大井町線直通急行は10両編成、大井町線の各停は6両編成と両数が異なることから、大井町線内で急行運転がなくなる早朝深夜は品川駅を跨ぐ電車が存在しない。これについては品川駅での乗り継ぎをできるだけよくすることで補填している。