1980年代の後半に差し掛かると、のちに「バブル景気」と形容される異常な好景気の時代が到来した。全国で消費が活発になり、観光地や都市部では夢のような建設計画が多数立てられた。鉄道会社の変化で言えば、多種多様なジョイフルトレインや豪華特急の開発が行われた。
帝北は、従来よりテリトリーとしていた日光周辺の開発に乗り出す。新たな需要掘り起こしのため、1990年、宇都宮市に「うつのみやゴールドランド」を建設、これは、宇都宮市の篠井地区に戦国時代にあったとされる篠井金山をモチーフとしたテーマパークであった。開業当初は大盛況で、篠井駅に臨時のホームを増設、上野から臨時特急なども多数運行されていた。那須周辺の開発にも乗り出す。1989~1990年の1年間で塩原周辺に4つのスキー場を建設、周辺をリゾート地として開発したほか、JRの西那須野駅から分岐して那須高原方面への新線を建設、東北本線経由で特急を直通させる計画も持ち上がっていた。
しかし、そんな夢のような時代も長くは続かなかった。1990年代前半にバブルが崩壊すると、日本は長い長い不況の時代に入る。建設されたばかりのうつのみやゴールドランドは閑古鳥が鳴き、那須のスキー場もスキーブームの落ち着きで次第に客数が落ち込んでいった。那須のスキー場群は2つ生き残っているものの、うつのみやゴールドランドは2004年に経営不振で閉園している。
バブル経済の崩壊は直通先の湾岸線が走る予定であった臨海副都心でも思わぬ事態を招く。臨海副都心の開発は「東京テレポート構想」として、バブル経済前から計画がなされており、21世紀初頭には6万人の居住人口を見込んだ開発計画を東京都が発表していた。さらに、1989年には新しい臨海副都心開発計画である「東京フロンティア構想」が東京都から発表、1991年には臨海副都心地区で1996年に世界都市博覧会を開催することが決定し、そのアクセス路線としてりんかい線とともに重大な役割を担う路線として急ピッチで建設が進められていた。帝北も臨海副都心の大規模開発や世界都市博覧会の開催を受け、地下鉄直通用新型車両の開発、世界中からの来場者を日光などの帝北沿線観光地へ誘致すべく、新型特急の増備や観光地のPRなどに力を注いでいた。
しかし、バブル経済の崩壊で博覧会どころか臨海副都心の開発自体に暗雲が立ち込め、1995年に就任した青島幸男知事によって世界都市博覧会の開催中止・臨海副都心の開発見直しが宣言される。これを受け、この地区に移転予定だった企業はその多くがキャンセル、お台場は空き地だらけとなり、今後の開発にも不透明さが際立ってきた。湾岸線の延伸は凍結され、博覧会の中止と空き地だらけの臨海副都心を前に、帝北のあらゆる準備は全て水の泡と化した。リゾート開発の失敗もあって帝北は1990年代後半より経営不振に陥り、複々線化工事の一時停止、また新系列車両も10年以上登場しなくなってしまった。